昭和四十八年六月七日 御理解第六十二節


 「昔から人も良けれ、我も良けれ。人より我が尚良けれと云うておるが神信心をしてもわが身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと一段一段進んで行くのじゃ。にわかに先生には成れぬぞ。」


人もよけれ我も良けれ。人より我が尚良けれと云う助かりはどういう様なことだろうか。そういう助かりとは人間がゆとりを持つ事だと思うのです。
 ゆとりを持つ、自分の心にゆとりがある。だから先ずはわが身におかげを受けなければならん。先ずは我身にゆとりを頂かねばならん。そこから人も助かる。成程人より我は尚良けれと云うことはそういう事だと思うのです。先ず我身におかげを受けてと云うことはそういう事だと思う。
 先ず自分自身がです、ゆとりのある私にならせて貰う。
 朝の四時の御祈念を待たせて頂く私の控えでの三十分間、もう何と云うですか実にゆとりを感じます。三十分間の間じーっと自分の心の奥底を見つめたり又神様の心を思わせて頂いたり、このじーっと自分を見つめる、じーっと考える。考えることと云う様な事を申しますね、いわゆる考える芦です。それを信心させて頂く者はじーっと信心を思うのです。そういうゆとりがね、日々の中に各所になからなければいけない。
 皆さんが五時の御祈念をまだお広前が暗あい御神殿だけにお燈りがついている。ほの暗い薄暗い中でじーっと五時の御祈念を待っておられる姿と云うものは実に神々しい、素晴らしい。
 今か今かと五時の御祈念を待っておられる。その待っておられる間にです、例えば思わなければいけない自分の心の事、又神様の心の事、又今日のお礼を申し上げること。お詫びを申し上げる事、お願いを申し上げる事じーーっと・・・・
 ですからどうしてもそこにゆとりが要るのです。
 私が四時の御祈念に三時半に出て来る様にそんなら皆さんが五時の御祈念を頂かれる前にそこにゆとりが要るです。もうあのゆとりがあってじーーっと御祈念を待たれる時間、あれが尊いのです。だからよい御祈念が出来るのです。だから御理解が血に肉になるようなおかげになって来るのです。
 もう兎に角親先生は改まれ研け病気直しや災難避けの神じゃない、心直しの神じゃと。心直しの事ばっかりしか仰らんと云う様にもう決めてしまっておる。どんなに有難い御理解でもだから身につかん。
 じーっとそれを思い考えてそれをじーっと今日一日のうちにどう頂くかと云うそれが出来てないからです。
 合楽の田中さんじゃないですけれども、最近それがです頂けてきた。これは御祈念なんかでも走り込みではいけない。そして最近は御理解が本当に血に肉になってるのを感じる。
 御理解を頂かれる、私はね、そんな悠長なと云うけれども、どんな場合であってもじーっと考えるゆとりを持たなければいけないです。仕事なら仕事に付く前です、自動車なら自動車に乗る前にじーっとどうでしょう、自動車を見つめて考えるひとつおかげを頂いたら、ハンドルを取らせて頂いてじーっと自動車が動く前に思うてみると云った様に。
 それがね、私は優雅な生活が出来る根本だと思う。ゆとりのある生活です。私はより優雅な生活を願う者です。
 現代社会にはそういう様なものが欠けておるのじゃないでしょうか。お道の信心頂く者が一人一人がそれぞれなりにです、ひとつゆとりを持てるところの助かりです、先ずは我身におかげを受けて人より我は尚良けれと。
 と、云うことは私は人よりもゆとりを持っておると云うのが良いのである。私が助かっておると云うことは事に処する前にそれをじーっと思い考えれれるゆとりを持っておると云うことが助かっておるのである。
 そこでです、根本的なお道の信心の姿勢と云うものを先ずはマスターしなければいけない。いわゆる真の信心生活と云うことにもう遅うなしたら損したり考える暇もないと云った様なけたたましい、けわしい生活になって仕舞うのじゃないでしょうか。
 神様の御守護の中に有るのですから、その神様の御守護下さるお守り下さる心を体して事に処すると云うゆとりをどうでも作らにゃいけません。それが私が助かっておると云うことであり、人よりかおかげを頂いた。
 例えば相手の人がです、険しい目つき険しい、云うならば態度でです、射るような言葉がとんで来ると致しましょうか、それをがちっと受け止めるからこちらが怪我をする。そういう時にこちらにゆとりが有ったら、もうそれこそ相手の目もやさしゅうなるだろう。態度も柔らかくなってくるだろう。それが人よりか自分が助かっておると云うことなんです。
 人より我は尚良けれと云うのはそういう意味に於いての我は尚良けれでなからなければならない。
 人より先ずは先におかげを受けてと云うことはそういうおかげを受けておかなければ出来ない。向こうが言うならこっちもこっちと云う様なけたたましい事になるのです。
 今日は皆さんここのところをですね、人より我は尚良けれと云う、先ずは自分がおかげを受けてと云うことはそうい意味でしっかり頂いて頂いてです、私共がゆとりのあるしかもゆとりのある間にじーっと思えれる、考えれれる、自分を見つめれる、神様の心の奥を思うてみる。
 神様の思いは私共がそこに難儀を感じておる、もう一つ向こうの方に神様の願い、思いと云うものが有ることを分からせて貰う。
 例えば農家の方達が取入れとか田植とかという時には成程忙しい。けれどももう他所が取り上げてしまってから取り上げる様な事じゃいけん。と云うてもう、やあやあやってその戦争のごたる風でやる。
 私は金光様の信心する者は、私はいつも繁雄さんに話すんですけれども、そげんうるたえなさんなと、それこそ人より一年遅れて分限者になる気になれと仰るけん、そういう行き方でいきゃあです、決して遅うなるような事はない。いわゆる実意丁寧なんです。それで濡らさんでよいものを濡らさねばならない結果になったりするのです。
 ゆとりのある、例えばどういう今日は忙しいという時であってもゆとりのあるおかげを頂かにゃならん。そこに怪我過ちがある。本当に人より一年遅れて分限者になる気にならせて貰わにゃいけん。それを只そうい風に思い諦めるとか、そういう風になると云うのでなくて、そうする事が本当だと分からにゃいけん。
 久留米の初代の石橋先生が信心生活と云うことについて神様にお知らせ頂いておられる様に、信心生活とはいわゆる丁度赤ん坊がこの世にまっ裸で出て来る。糸一すじ体につけていない。それが私達だ。 それに着物を着せて貰うたり、食べ物を与えて頂いたりして成長する。私共の物と云うものは何にもない。一切が神様の御物である。 そうい例えば思い込みが出来てくる時に、自分の我情が我欲がです、云うならば人より先にといった様なことになってくるのです。信心の云うなら根本のところを分からせて頂けばどういう大きな仕事をしておろうが、どういう忙しい仕事をしておろうがです、ゆとりのある信心生活が出来なければ嘘です。だからいよいよ繁盛して行くのです。
 人間関係に於いてもです、ゆとりがないからこんがらがってくるのです。先ずは自分が助かってないからゆとりがないからです。
 神信心も手習いも同じ事。ですからね、例えば本当に手元のところからゆとりのある在り方と云うものを身につけていくと云うこと。そういう稽古、同時に根本的な信心の姿勢と云うものを作らせて貰う。それには信心の生活と云うものがどういうものであるかと云うことを分からせて貰う。
 どんなにあくせくとしても、結果と云うものは良い結果は生まれてこない。いやむしろ自分で自分の首に縄をかける様な結果にしかならない。
 昨夜文男先生が遅く足揉みに来て、そしてテレビをつけたら丁度そこんところが何かニュースが有っておった。もうこれは日本国中が食べられんごとなりますばいと云う。そげなこつなら寿司屋さんどんどげんなるのと云うて言うたことでした。
 もう何と云うですか、何とか病と云うそういう菌をもう日本近海はみんな持っておるんだといった様なね、研究が今あってるそうです。けれども結局自業自得だねと私は申しました。けたたましい事ばっかり人間が自分で自分の首をくくっていきよるようなもの。
 それを見てから本当に心から神様にそういうけたたましい生き方をして来たことをお詫びしなければおられない気が致しました。
 そんならこれは小さい自分の家庭の事を云うても同じです。もう苦しいと云うことは自分が自業自得です。云うならば神様を知らない為に神様の御守護を受けておることを知らずにです、只自分が生きなければならん、自分がこうしなければならんと云う我情我欲いっぱいでくる元が難儀になっている。
 ですからこれからはです、私共が神様のお心に添い奉る生き方をです、あらゆる場合場面でです、じーっとひとつ思うてみて、自分の心を思うてみて、神様の思いを思うてみてと云うひとつゆとりをもって、これをこうしたならどういう事になるだろうかと云うことを思うてみて神様の心に添い奉る生き方をいよいよ身につけていこうと云う信心がいよいよ必要になってきたと云う思いが致します。
 現代社会に布教する金光教、躍進する金光教と云うことはです、先ずは金光教の信心者、信奉者自体が助からなければならない。自分が助かっておらずしてどうしてそれを人に与えることが出来るか。 と、云うことは先ず金光教信者自体がです、結局ゆとりのある心、ゆとりのある生活。これが出来なければならない。成程、ああいうゆとりのある生活が出来るようになる金光様の信心をしておれば、ああいう心にゆとりのある生き方が人間関係の上に於いても出来る。それを先ずは自分が人より先におかげを頂かねばならん。そこで先ずは皆さん信心の云うならば信心生活をさせて頂くために教えを頂く、お参りをする。
 そこでそんなら朝参りなら朝参りでもです、五時の御祈念が今か今かと待たせて頂けれる、そのゆとりが要る。それで御祈念にかかって初めて良い御祈念が出来る。それでこそ初めて良い御理解を血に肉にすることが出来る。
 そしてその御教えを今日の御教えのここのところを生活の上に現して行こう。それでそれぞれの生活の現場に於てです、それに着手する時にです、先ずはゆとりを持った心でさあ今日の教えをこの働きの中にどう生かすかと云うゆとりをよくよく自分の心の中に頂いて、おかげを蒙らせて貰う。
 一日の御用が終らせて頂いたら先ずは思うてみる。じーっと思うてみる。今日一日の働きと云うものがどういうことになってきたであろうか、本当に働くと云うことになっただろうか。本当に今日の仕事が事に仕えると云うことであったであろうか。
 そういう生き方で行っておってもまだまだお粗末も有れば御無礼もあるところを、お詫びをさせて頂く一日でありたい。
 ゆとりのある一日、ゆとりのある生活が出来ることの為に先ずゆとりを作らせて貰う。それを今日は先ずは私が助かると云うこと。人よりも先に助からねばならんと云うことは、そういう意味に於て助からなければならない。そしていよいよゆとりのある優雅な生活の出来れるおかげを頂かねばならない。
 店が大きくなりゃなったしこ忙しゅうなったと云うならもう大きゅうならん方がよかごたる感じがするじゃないですか。
 大きゅなりゃ大きゅうなる程、云うならお百姓さんでもそうですよ。田圃が広うなりゃ広うなった程忙しゅうなったと云う様な百姓じゃつまらんです。
 それにはそれだけのちゃあんと人材も又働きも出来るおかげを頂いてゆとりのあるお商売、ゆとりのある百姓、ゆとりのある御用が出来るおかげを頂くと云うことがです、金光様の信心者のおかげである。それが助かることである。
 そんならそれが出来ることの為には、先ずは信心生活を身につけなければならない。自分のものであるばし思うようにと云う思い込みが出来て来る時です、そんなに慌てんでも・・・・いや慌てては相済まんことになるのです。バタバタしてはいかん。だから一にも二にも神様を中心に申し上げると云う生き方も自ずと生まれて来るのです。
 どうぞひとつ、今日はとりわけじーっと思うと云うことをひとつ思うて下さい。そこから必ずゆとりが生まれる。そのゆとりをもって事に処していくと云う信心、そういう事が一段一段自分のものになっていく時にです、それこそ信心も手習いも同じこと。それが自分の身に付いて来る、血に肉になってくる。
 そこからです、ゆとりのある人、ゆとりのある家庭、それをかくあらなければ人間の幸せはないと自分の周辺にです、現代社会が人間が人間の力で自分の首を締めるような状態になっておる。そこからです、本当の救いの道、助かりの道と云うものが開けて来ると私は確信致します。 どうぞ。